琉球八社


波上宮・沖宮・識名宮・普天間宮・末吉宮・安里八幡宮・天久宮・金武宮を称して八社という

いつごろから八社と呼ぶようになったかは明らかではない

はっきりいえることは、八社信仰が真言密教の影響を強く受けていることである

『八社縁起由来記』によると、八幡宮を除く七社はいずれも熊野権現の勧請

祭神は伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊、八幡宮は八幡大菩薩のの勧請、応仁天皇、

玉依姫、神功皇后の三神を祀っている
安里八幡宮 ●安里八幡宮【あさとはちまんぐう】/那覇市
那覇市安里38
098-867-5894
1466年に那覇市安里の丘陵地に創建された。
琉球八社のなか七社が熊野権現を祭神とするが
本社のみ八幡社として本宮に応仁天皇
相殿左に玉依姫、右に神功皇后を祀る
宮社は、沖縄戦で焼失し、戦後
再建された。
波上宮 ●波上宮【なみのうえぐう】/那覇市
那覇市若狭1-25-11
098-868-3697
創建時代は不明であるが、護国寺の鎮守社として
勧請したものである。
那覇市若狭の海岸の突き出した断崖の上に所在
「琉球国由来記」によると、崎間里主というものが
釣りをしていて発見した光る石を高い所に置いて
祈ると効験があった。
この国の神々に石を奪われそうになったので
逃げて波上まで来た、そこで<自分は熊野権現の化身
でありこの地に社宮を建てて国家を守護すべし>
という神託があり、それを王宮に奉上して波上に
建立したとある
天久宮 ●天久宮【あめくぐう】/那覇市
那覇市泊19-3
098-863-3405
「琉球国由来記」によると銘苅村(現那覇市)の
銘苅翁子という者が、隣村の天久村で不審な法師と
女人を見て、首里王府に報告した。
王府はその虚実を確かめたのち、社殿を造営したところ
自分は熊野権現で衆生利益のために顕現
女人は、国家の守護神、弁財天であるとの
神託があったとする
もとは、現在地の北方にあったが1734年に
現在は、那覇市泊の聖現寺の境内に移建した
末吉宮 ●末吉宮【すえよしぐう】/那覇市
1933.1.23(本殿)
1972.5.15
那覇市首里末吉町1-8
098-886-6975
首理城の北方の末吉町の丘陵にあり
社は、尚泰久王【しょうたいきゅうおう】時代の
景泰年間(1450〜56)に天界寺の住持であった
鶴翁【かくおう】和尚が熊野権現を
歓請したのが末吉宮だといわれている
沖縄の神社の建築創始期の形式や手法を知るうえで
貴重な資料で、1936年9月国宝に指定を受けるが、
沖縄戦で大破。72年5月、史跡として国の文化財の
指定を受け、同年11月復元された
沖宮 ●沖宮【おきぐう】/那覇市
1938.7.国指定
那覇市奥武山44
098-857-3293
もともとは、那覇港内にあったが1908年に、築港工事の為、
安里八幡宮境内へ移動し遷座。
「琉球国由来記」の沖山縁起によると、
海中より光輝ある枯木を拾得、熊野権現の霊木として、
地を卜し神社及び寺を創建、
その霊木を奉祀したとある
創建年は不明で、尚貞王【しょうていおう】代の
1681年に板葺から瓦葺へ改めたとある
この社殿は琉球神社建築の典型的なもので、室町中期頃の
特徴を備えているということで1938年7月国宝に指定された
戦災で焼失した為、60年に現在地に遷した。
識名宮 ●識名宮【しきなぐう】/那覇市
那覇市繁多川4-1-43
098-853-7225
真和志間切(現那覇市)識名に尚元王【しょうげんおう】
(在位1556〜60)長子尚康伯【しょうこうはく】
病気回復で、創建された。
沖宮本殿のの建築に類似していたといわれる。
普天間宮 ●普天間宮【ふてんまぐう】/宜野湾市
宜野湾市普天間1-27-10
098-892-3344
創建時代は、不明で、宮社は沖縄では珍しく
鳥居が境内と入り口と、内側に2基立てられている
金武宮と同様に本殿が鍾乳洞の中に設置されている
という特殊な形式を有する
戦後米軍に取り壊され1950年に再建される
本殿は鍾乳洞のなかに設置されている。
金武宮 ●金武宮【きんぐう】/金武町
金武町金武222
098-968-2411
金武観音寺の境内には、鍾乳洞があり
洞内に陶製の小社殿ががあり、本尊は専修観音で
陶製だったが、心なき者によって破壊された
沖縄神社建築としては特異なもので、普天間宮
とともに洞窟内に奉祀された一例である。
洞内を奥に進むと、泡盛を寝かせて
熟成させている

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